きょうの備忘録

<菊地成孔がまた、面白い試みを始めた。題して「ホットハウス」。「オールドスクーラーのビーバップで踊る」という生バンドのダンスパーティーだ。

 

 私は第1回目と第2回目フル出場で、カツラでヘアをビーハイヴ気味にして、初回は「50年代のサンフランシスコのチャイナタウンの有閑夫人」、第二回目は「第二次世界大戦後の、ハワイの戦争花嫁、ホキ・ユヤマ」をテーマをセルフドレスコードとし、昔ディスコのフロアにいた「ちょっと、踊りを知っている不良姐」のように、その場のムードメーカーを友人として、勝手に務めて上げている。

 

 それというのも、私、パーティーの要である、リンディーホップというスィングを踊るペアダンスが、そこそこ踊れるんですねぇ。偶然にも「ホットハウス」から遡ること半年前から、私個人はその指導的立場の、アモーレ&ルル夫妻から熱い誘いをうけて、レッスンを始めていたからである。なので、夫妻が打ち合わせで、菊地に会った、と聞いてびっくり仰天。そして、菊地の方は「してやったり」と思ったただろう。その心は、「観客の仕込みは充分じゃん」。なぜなら、クラブのフリーダンス=タコ踊りとは全く違い、男女のペアダンスを、フロアで咲かせるためには、かつて菊地がディスコ時代に体験したであろう「ダンスフロアのリーダ的存在」が不可欠なので、そこに不肖、私と、一緒にレッスンに通っている、歌手の野宮真貴嬢は、まるで仕込みのように役に立つこと、必須だったのである。

 

 実際フタを開けてみると、たぶん、小学校時代のフォークダンス以来、一切、異性とのペアダンスを踊ったことのない観客の男女が、数時間後には、ハイスクールのプロムバーティーぐらいの、こなれた空気にはなっていたので、企ては大成功だろう。これは実感としては相当面白く、「ほとんどのエンターテイメントは知り尽くされ、やり尽くされている」とタカをくくっている人々に、完全に一矢を報いた形になった。「だって、私たちって、恋愛やセックス以外にほとんど、異性の身体と触れあうことって無いんだもの!」という大きな欠落とその欲求に、これはバチハマり。菊地音楽のデフォルトである官能性もオーディエンスが頭の中で妄想するだけではなく、このパーティーの現場で、実際に触れて感じる不特定多数の異性の肉体として現実体験としてこなしていかなければならないわけで、この敷居のちょっとした高さもまた魅力のひとつ。非リア充でいた方がなにかと、ラクな昨今、「ホットハウス」でもたらされる、身体的な冒険は、久々の人生ビビッド感として、参加者に伝播しているのが、彼らの高揚した表情から、ひしひしと伝わってくるのだ。

 

 菊地成孔はポストクラブ時代、いわゆる、クラブという音質と音圧の、そして、踊る肉体を持って参加する視聴体験を経た時代に、ジャズが何ができるか、ということを考え抜いた上で、ふたつの大きな実地回答を出している。

 

 そのひとつが、70年代のマイルス・デイビスの身体的な熱狂と蘇りを、生の演奏でしかなし得ないアフリカのポリリズムを取り入れることによって実現させた「デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデン」。もうひとつは、クラブのシステムを逆説的に捉え、今では身体をコンサートホールの座席に拘束し、踊ることをエステティックなマナーで禁じ、故に観客の心が、トランスの忘我とは質が違う、陶酔の極地に陥らせる「ぺぺ・トルメント・アスカラール」だ。また、彼はこのクラブの身体性を意識した二つのユニットの押さえをした上で、彼はサックスを吹くブレイヤーとして、ベーシックな演奏ジャズバンドとしてのセクステッド・コンボ「ダブセクステッド」をメンバーの一人に、パードン木村というダブマスターを入れた上で実現してもいる。(この存在によって、大学ジャズ研出身者による好事家領域になっていたジャズが、いかに時代性を伴った生きた音楽になったかは、バンドの動員を見れば明らかなのだ)

 

 私は、2007年に出した、クラブ/DJカルチャーについての文化論考集「クラブカルチャー!」の中で、菊地にインタビューを試みているが、そのときびっくりしたのが、彼自身が、めちゃくちゃ踊り体験が豊かな人だったということだ。地元の千葉は銚子のディスコに始まり、週末は東京に出てきて、赤坂の「MUGEN」に足を伸ばし、全盛期の「ニューヨーク・ニューヨーク」に「ツバキハウス」、最も激しく踊ったのが、1991年、ワシントンDC発のゴーゴーというジャンルの代表格、チャック・ブラウンとソウルサーチャースのライブだったそう。ということは、菊地は、ダンスという快楽に奉仕するための機能音楽の身体的快感も、踊るという行為の身体性もその遊び体験から、十分知っていることになる。デートコースもぺぺも、その、ディスコ~クラブへと続く、ジャズと踊る主体の身体性の実感無くしては、つくり得なかった表現である。

 

 さて、「ホットハウス」は、デートコースとぺぺに続く、ポストクラブ時代のダンス回答であることは間違いがない。彼は自らこの企てに対し、以下のようなコンセプトを上げている。

 曰く「DJカルチャーでも所謂クラブジャズ・カルチャーでもなく(パーティーのレジデントDJとして菊地成孔本人とNadjaが配され、今回は世界的な支持を集めるジャズDJ沖野秀也がゲストDJとして参加するが)、菊地の呼びかけで集まった東京ジャズシーンの一線級メインストリーマー達が、あくまでダンス・ミュージックとしてビバップを演奏する。という点と、楽曲のBPMに沿って、ニューヨーク式のカップルダンサー(リンディ・ホッパー)と、ロンドン式のソロダンサー、更にはラテンのダンサーが同一のフロアで一堂に会し、バトルにも似たせめぎ合いを見せる。というバリアフリーぶりがパーティーの要」だと。

 

 彼は確信的に、当時はダンス消費音楽に対抗したはずの、「踊れないジャズ」であるピ・バップを、それも選りすぐりのプレイヤーのガチの演奏にて、今回の「ホットハウス」の音楽に据えた。大丈夫か?このあたりは、彼のカンどころでもあるが、現実は、非常にスリリングで活気のある現場になった。これが、かつてのスタイルに乗っ取ったスィング系だったとしたら、その適性マッチングがあまりにもレトロに安定的で、あのフロアの爆発は見られなかっただろう。何せ、クラブを通して、私たちは繰り出される音のインプロとセッション対峙することになれてしまってもいるからだ。

 

 そんな、ビ・バップの激しい演奏とともに、「ホットハウス」のパーティーでは、ディスコで踊り狂った彼が体感したはずのダンスホールの風俗的な雰囲気と、実際に汗ばむ異性の身体や匂いや息づかいがペアダンスの人肌を通じて感じられる、リアルで色濃い時間が約束されている。

 

 ご存じのとおり、ディスコからクラブに移行したときに、様々な変化が起こった。そのひとつはダンスフロアのコミュニケーションの方法である。かつて、ダンスフロアのダンスは、求愛だったり、駆け引きだったりのセックスに至るまでの前戯的な意味合いがあったのだが、クラブになってからは、踊る個人自体の感覚が単体でエクスタシーに陥るようになり、もはや、その音楽体験がセックスそのものとなってしまった。

 

 その感覚は現在も継続中だが、さすがに90年代再生を極めた、レイブ、トランス感覚はすでに音楽フィールドの中で日常化。おまけに、震災のような未曾有の出来事が起こってしまい、原発事故の放射能危機にさらされている今、忘我のエクスタシーなんかに浮かれていては、生存できないわけで、そこでひとつの古典回帰が起こっても不思議ではない。(第1回目は震災以前の開催で、今の状況は想像すべくもなかったはずだが、こういう時代とのシンクロを引きつけてしまうのも才能ですな!)古典回帰は、私たちが宿命的に持っている肉体の実感や本能への目配せでもある。そこで、菊地が考えたのが、もう一度、ダンスフロアに男女の性差と身体性を持ち込み、区別感覚の左右、高低差を持ち込むことだったのだ。

 

 しかし、カップル文化が皆無の日本では、ソレが菊地のかけ声だけで、実現するはずもない。文化系が多く、ナンパ師なんぞはたぶん一人としていない彼のファンをして、ビバップで踊らせるために、菊地はパーティーに様々な仕掛けを施している。まずは、パーティー顧問として日本のジャズ&ダンスフロア文化の生き証人(チャーリー・パーカーの演奏を生で聴いたことがある!)、瀬川昌久を擁し、「ジャズとダンスの歴史」レクチャーを行っているのだ。瀬川氏自身、白髪のダンディーで、戦後、一時だけ日本でも風俗として存在した踊るカップルダンスの体現者のオーラーは、エレガント光線十二分で、彼の歴史的教養と、奥様と踊る実際のペアダンスは、フロアの空気を艶やかな色に染めていく。「ペアダンスって言ったって、踊り方が分からないよ!」という当然の反応は、これまた、日本を代表するリンディホッパー・カップルとして、クラスやイベントを主催している、アモーレ&ルルによるステップレッスンにて、実体験的な教養も身に付けつつ解決されていく。

 

菊地と彼の盟友、大谷能生のコンビがヒップホップ式の2MCスタイルで登場するのは、往年の社交場「ラテンクォーター」のダンスの合間に登場する、コメディアンのような位置づけ、と考えればいいだろう。

 

 さて、第2回目からは、カップル参加の縛りが消えて、「踊らず鑑賞派」もオーケーになったのであるが、予想通り、「生身の女との実コミュニケーションが大の苦手」なニッポン男子たちは、またぞろ、鑑賞派に寝返り、ダンスフロアは、女同士が踊る姿もちらほらするという予想できる事態に陥っていた。このもの悲しさは、女性からするとかなりトホホなので、今後はやはり最初のカップル縛りをぜひ、男性への教育的指導も含めて行っていただきたい。何せ、そこで踊られるペアダンスは、完全に男性のリードありきのものだからだ。

 これまた、菊地成孔の「あえて、文化的なギャップを作り、その差異を愉しむ」という根本マナーの一環。仕込みの私としては、とにかく、その辺のテクノ野郎でも、ヒッブホップでも、踊り素養のある若い男をフロアに供給し、彼が仕掛ける「オトナの社交場」に一大荷担したいと思っている。>

湯山怜子

munekata:

via s3.amazonaws.com
きみは知っているかい、岩澤瞳ちゃんを? 隣の男は別に知らなくてもいいんだ。ただ、瞳ちゃんがいたことだけを覚えておけばいい。俺たちの21世紀は彼女とともに始まったんだ。

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きみは知っているかい、岩澤瞳ちゃんを? 隣の男は別に知らなくてもいいんだ。ただ、瞳ちゃんがいたことだけを覚えておけばいい。俺たちの21世紀は彼女とともに始まったんだ。

 今年最大のベストセラー「もしドラ」の編集担当者、ダイヤモンド社の加藤貞顕さんの講演が、昨日、六本木アカデミーヒルズで行われたので聞きに行った。

「もしドラ」の正式な署名は「もしも高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」。初版1万部から始まったこの本は、発売まもなくテレビや新聞で取り上げられ、150万部のミリオンセラーに。その相乗効果でダイヤモンド社から出ている本家ドラッカーの本も50万部売れたという。

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 厳しい出版不況下、加藤氏はどうやって「もしドラ」を150万部も売ったのか。以下、そのエッセンスを箇条書きでお伝えしたい。

1.「1%の法則」で最初からミリオンセラーを取りに行く

 加藤氏は「1%の法則」という自説を作った。これは「読者対象の1%が本当に買ってくれる」というもので、「1億人を相手にできる本ならば100万部売れる」という。最初から100万部を狙うためには1億人の興味を引くような内容の本にしなければならない。ドラッカーだけでは全国4000万人のサラリーマンには受けるが他の層は取り込めない。だからドラッカーに何かをくっつけることでパイを広げようとした。「ドラッカーと女子高生をくっつけてみたら」という著者の岩崎さんのアイデアで、その何かが「女子高生」になった。

2.「TDKの法則」にかなった本を作る

 これも加藤氏の自説で、今売れている商品はどれも「TDLの法則」にかなっているという。「T」はテクノロジー、「D」はデザイン、「L」はライフスタイル。たとえばiPhoneやヒートテックは、どれも最先端のテクノロジーとみんなが手に取りたがるようなデザイン、みんなが欲しているライフスタイルを提供する商品である。本も「みんなが欲していて、でもみんなが気づいていないもの」をテーマにすることがベストセラーの条件だ。

3.顧客は「読者」「書店」「マスコミ」の3通りと心得よ

 顧客は読者だけじゃない。まず販売の最前線である「書店」が面白がって応援してくれること、そしてテレビや新聞、雑誌などのマスコミが取り上げてくれることがベストセラーにつながる。「もしドラ」は大雑把にテレビ数十回、ラジオ数十回、新聞500回、雑誌200回取り上げてもらった。100万部をめざすにはテレビでの露出が一番効く。

4.販促では思いつく限りのことを何でもやる

 社内に「もしドラ」プロジェクトを結成、販売促進に金をかけ、献本だけでなく、ツイッターやブログでの口コミ拡散、店頭でのオリジナルしおり、甲子園球場でのオリジナルうちわ、電車の中でステッカー、作文コンクールなど、思いつくものはなんでもやった。

 2時間の講演では、この他にも意表をつくアイディアが次々と語られた。それらは何も本の企画・販売だけでなく、すべての商品開発・販売にも通用するノウハウであった。ベストセラー編集者は、すぐれたマーケッターでもあったのだった。

ある意味ちょっと完璧すぎるくらい、図式的じゃないの?って思う位に、今音楽を聴きたい人の、まあつまり、言葉冷たくなるようですけど、マーケットみたいなのがあったとして、マーケットターゲットを、ずばり打ったっていうか。なんかちょっと余計な物が、「雑味」って言うんでしょうかね、雑味みたいのが全く無いんですよね。完璧にその、あるマーケットを形成し、そのターゲットを打った っていう事をされてるので、お若いのに立派だなって思いますよほんとに(笑)。あの、私のSpank Happyなんかね今の例えでいうと、雑味だらけなんですよね(笑)。 美味しさもあるんだけど、美味しいんだけど、美味しいから食おうと思うと雑味が一杯あって、これはいらねえしこれは分かんねえしみたいな感じで、こう、食うのに疲れるんでしょうね。雑味が平気な「雑味フェチ」の人とか、SMでいうと「M」の人ね、えー、辛いのがいいんだという人は、雑味気にならないですから、寧ろ好きなんで、そいでこう、数寄者みたいな感じで嵌ってくんだけど、一般性を考えると、雑味無い方がいいですもんね今ね。 もうホスピタリティ高く、美味しくて良くて、自分の欲しいものだけが整然と並んでて、変な雑味とか、要らない薬味とか乗っかってて、「このパクチーは食えないよ」とかそういうのは嫌だっていう。「最初から取っておいてくれよ」っていうのがまあ、今のお金出して物買う人の基本的なメンタリティーだと思いますんで。だからまあ私は10年前の粗相とはいえですね、雑味が一杯入ってるもん作っちまったなと(笑)。 でまあ、最近の人は雑味が無い、素晴らしい「製品」でもあり「アート」でもある事やってるんで、とても立派だなあと思いますよ、ほんとに。

まちでは、影響力の強いコンテンツが日々自然発生し、住人、商売人、学生、来街者それぞれの潜在意識に少しずつ影響を与えています。しかし、多くの場合それらは野に咲く雑草のように見過ごされているんですね。まちを変える力のあるコンテンツが中心市街地の中やエッジにできている家賃断層地帯(まちなかの低家賃エリア)で上手く編成されると、途端に衰退していたエリアが活性化し始めます。また、群れを成して集積し始めるとまちを動かす力となるわけです。更に異質なコンテンツ同士を結合させることで面白いコンテンツに育つこともあります。

考えてることを「文章にしてみる癖」をつけるといい。これはうちの若手編集にもすすめてますが、やってんのかな? 言葉と数字はものを考えるための最強のツールです。 #manga #w_morningasashima1
2010-10-07 18:07:58

  • asashima1返信する RTする ふぁぼる 面白い漫画を片っ端から文字をつかって因数分解してみるとか。たとえば「(兄弟=ライバル)×宇宙飛行士」。「(スポ根×東大受験)+実用性」。「サッカー×(監督+視点)」とか。まあ、これはお遊びだけど… #manga #w_morningasashima1
    2010-10-07 18:11:47
  • asashima1返信する RTする ふぁぼる でも因数分解してすっきりした式になるものは企画として多分強いんだと思う。若手編集者に「企画書け」って言うと、レシピじゃなくてメニューを書いてくる。たとえば「夏にぴったり! 本格キムチチャーハン 600円」とか #manga #w_morningasashima1
    2010-10-07 18:12:07
  • asashima1返信する RTする ふぁぼる 企画は作り方だから「米を炒めて卵を一個でなく二個投入。ポイントはごま油に鶏油を加えることと、ケジャンの汁を加えること。キムチはそのへんので可」とかそういうの。お客さんに見せるもんじゃない。コックに見せる設計図。 #manga #w_morningasashima1
    2010-10-07 18:12:23
  • 第1に、特集に書かれているように、本当に「読書離れなど起こっていない」のでしょうか。事実として日本の出版産業の市場規模は大きく縮小していますし、この特集では毎日新聞の調査結果が引用されていますが、例えば読売新聞や文化庁の調査ではそれと反対の結果が出ています。ここを見誤ると、電子書籍での対応も間違える危険性があるように思います。

     第2に、電子書籍が普及すれば、本当に良書に出会うチャンスが増えるのでしょうか。ネットのレコメンデーション機能では、自分の関心のある分野のキーワードに関連したものしか出てきません。あとは大量の情報に埋もれるだけです。書店の店頭よりも、むしろ機会は減るのではないかと思います。

     第3に、「電子書籍元年」という言葉は、それで儲けたい人を興奮させるだけで、かえって問題の本質を見失わせてしまうのではないでしょうか。本誌でもちゃんと言及されていますが、正確には「4回目くらいの電子書籍元年」です。

     第4に、電子書籍の普及は良いことですが、ネット上でのコンテンツビジネスはまだ儲からないという根本論も、多くの人が認識すべきではないでしょうか。音楽、テレビ、新聞などすでに大々的にネット進出しているコンテンツの経験から、ネットからの収益は本業の収入に比べてまだ微々たるものです。出版文化を支えるのは現実の出版ビジネスですから、ビジネスとしての収益性の観点も重要ではないでしょうか。

     第5に、電子書籍なら印税率は紙の10%が90%になると言うのは、ちょっと言い過ぎではないでしょうか。著者と情報仲介者(ネット企業?)だけでは良い出版物は出来ません。電子書籍の価格によっては著者の取り分も減ります。ついでに言えば、米国では、紙と電子書籍で著者や出版社の取り分はそんなに大きく変わらないし、印刷や配送のコストも実はそんなに大きくないという試算もあります。

     第6に、国会図書館長が唱える“長尾構想”については、様々な論点が存在します。そもそも、ネット時代の図書館の望ましい姿さえも明確になっていません。その中で、グーグル対応の観点だけから官が前面に出過ぎて民業を圧迫したら、本末転倒です。

    もっと著者自身が電子化を

    著作者は著作権を握っているといっても、誰しもがただちにiPadで頁をめくるように読める電子書籍をつくることができるわけではない。それにはコストと手間がかかる。

    あるデジタルコンテンンツ担当を十数年にわたってつとめてきた準大手版元の幹部と話す機会があったが、印刷所が持っているデータを買い、それをEPUB形式にして、あらためて校正をかけるコストを考えたら、既刊本の電子化はわりが合わないから版元としてはやらないと言っていた。その版元の方針はそこで作品を出している著者の作品については原則、その著者が電子化(販売)を希望すれば自由にやってもらう方針にしているそうだ。「新刊ならわからないけれど、電子版が紙の作品を上回る部数を売ることはありえないと思う。だから、既刊本の電子書籍は著者と読者を結びつけるツールとして有効活用してほしいし、その協力は惜しまない」とその幹部はぼくを励ましてくれた。

    画像を綺麗に拡大するフリーソフト「SmillaEnlarger」がすごい

    小さな画像を拡大したい時、どうしても起こってしまう画像の劣化。そんなときに便利な、画像を美しく拡大するフリーソフト「SmillaEnlarger」をご紹介します。上の画像は拡大例ですが、かなり滑らかに拡大出来てます。

    ダウンロード

    こちらから「SmillaEnlarger」をダウンロードします。

    Download

    ソフトを起動させます。

    SmillaEnlarger

    使い方

    まずは、拡大したい画像をドラック&ドロップします。

    SmillaEnlarger

    Output Dimensions …サイズ変更

    Specify zoom facter: 倍率

    Specify width of result: 横幅指定

    Specify height of result: 縦幅指定

    Fit inside boundary: 縦横幅の最大値指定

    Stretch to fit: 縦横幅の指定

    Crop to fit: 切り取り指定

    Fit inside, add bars: 余白

    Enlarger Parameter …画質の設定

    sharp: シャープ(通常はこれにする)

    painted: ペイント風

    sharp & noisy: シャープ + ノイズ

    操作も簡単な軽量ソフトなので、宜しければどうぞ

    編集者で言えば「次も企画をやる(本を作る)権利を留保する」ことを以て勝利というわけにはいかないだろう。正社員編集者は異動しないかぎり企画をやる(本を作る)ことは義務であり、企画は通して当たり前だからだ。編集者の勝利条件は何か? と考えると、僕なんかは古くさいかもしれないが、押井監督がしばしば言ってる「3拍子、(2つは流しても1つは必ず評価される)3割バッター」にシンパシーを覚える。映画監督も編集者も“向こうから来た企画で断れないものもある”なんてそっくりな仕事だったりする。それを引き受け、そこそこのものを作り、次も信頼されて声がかかるほどのそこそこの結果を出す……。

     実はこれ、映画監督や編集者以外でも、ふつうに仕事してる人なら多かれ少なかれこんな不安定要因のなかで働いているものだ。ただし職種によって信頼の担保のされ方が違う。本書でも付録として〈スタッフ篇〉があり、そこではプロデューサー、脚本家、カメラマン、俳優などの勝敗論も論じられる。俳優は「自分で勝負に出るためのカードが少なすぎる」などと職種による差異がきちんと述べられているので、自分の仕事に引き寄せて考えるときの補助線も多数ある、親切な本なのだ。

     しかし僕はこれ、夢中で読んだけど最終的に知恵熱が出たようになって体調崩してしまった。あんまりリアルすぎる。映画に対してもっとカジュアルに気楽に接したい人には到底オススメできない本だ。何より、ここで押井監督に斬りまくられる古今の監督たちを笑ってスカッとしたとしても、その直後に押井監督の言葉は自分へも向けられるからだ。「お前はどんな勝負をしてるかわかってる? それに勝てる?」と。このプレッシャーはきつい。猛毒だと思う。